In addition to that, we cannot say that the conversation failed because Betty did not appropriately follow the principles of charity in this case. This is because even the ideal hearer could not take into consideration the information which would be given on September 2nd on September 1st, when Betty made a phone call to Cathy to invite her to have some slices of melon.
Then did Fujiko write an inappropriate story based on a misunderstanding about the nature of decisions? I do not think so. Time machines have the power to destroy Sir Karl R. Popper’s principle: “We cannot anticipate today what we shall know only tomorrow.”Hence, if there are time machines, such a natural principle as we cannot anticipate today what we shall decide only tomorrow would cease to hold. Fujiko indicated that the nature of decisions in a world with time machines would be radically different from that in our world.
この写像は単射ではないから、絵の上の点から、元の三次元上の点を一意に決定することはできない。つまり、絵がどのような立体を表現しているかについての解釈は、無数にあるのである。不可能立体の絵は、不可能な立体を表現しているといったが、それはしたがって、絵の一つの解釈であるに過ぎない。極端な例を挙げれば、その絵を、不可能立体を描いた絵の絵であると解釈すれば、それはもはや不可能立体の絵ではなくなるわけである。
自然主義者は、自分達の説明項に質的な多様性が欠けていることを素直に認めなければならないだろう。自然主義は、命題間の含意関係が明確である、という意味での説明項の〈明らかさ〉を得るために、説明項の質的な多様性を犠牲にしたのである。だが自然主義者は、自分達の説明項は、「質的に多様である」というのとは別の意味において〈豊か〉である、と切り返す。自然主義の説明項は、様々な事態を細やかに区別できる、という意味において〈豊か〉なのである。そして自然主義者はクオリア論者に対しては、次のように言うだろう。自然主義は確かに多様な質そのものを説明することはできないかもしれない。しかし、それらの質の違いが何に存するのかということなら説明できる、と。
命令においては、適合の責任を課すのは命令する話し手であるのに対し、適合の責任を負うのは命令される聞き手であり、責任を負う者が、責任を負うことを決定する者と一致していない。命令とは、いわば他人の名において約束することなのである。この点で、命令は代理行為とよく似ている。代理人が本人に代わって契約を結ぶ代理行為では、契約を締結する者は代理人であり、その契約の効力を負う者は本人だからである。命令と代理行為は、責任を負う者と責任を負うことを決定する者が一致しない、という特徴を共有しているのである。そこで、命令について考察を深めるために、民法学における代理についての蓄積された研究を参考にすることができるのではないか、という期待が生じる。
この二つの疑問は、現象学的存在論と自然主義的存在論の間の重要な質的差異を指し示している。その差異とは、ストローソンが記述的形而上学〔descriptive metaphysics〕と改訂的形而上学〔revisionary metaphysics〕と呼び分けた、二つの形而上学的態度の違いに一致している。ストローソンによれば、記述的形而上学とは、世界について我々が現にどのように考えているか、その構造を記述することで満足する形而上学であり、改訂的形而上学とは、世界についての我々の考え方の構造を改良することを目指す形而上学である。存在論は形而上学の花形であるが、この区別を用いれば、現象学的存在論、及びおそらく論理学的存在論は記述的形而上学に分類されるのに対し、自然主義的存在論と観念論的存在論は、改訂的形而上学に属していることになる。
デイヴィドソンはここで、言葉の正しい使用と誤った使用の区別を、聞き手に理解されたいという話し手の意図が実現されるかどうかという区別と重ね合わせることを提案している。これはすなわち、言葉の正しい使用と誤った使用の区別を、コミュニケーションの成功と失敗という区別と同一視するということである。ところがこのような同一視をしてしまうと、コミュニケーションが失敗したすべてのケースにおいて、話し手が誤った言葉遣いをしたことになってしまう。前とは反対に、これでは、コミュニケーションの失敗の責任がすべて話し手に押し付けられてしまうのである。
Google Scholarは、学術論文や学術書の被引用数を表示することができる。そこでこの仕組みを用いて、20世紀(1901年〜2000年)に出版された文系の学術書の中で、どの本が多く引用されているかを100位まで調べてみた。以下にはその結果を掲載する。
自由が選択のための時間的な猶予であると考えるレヴィナスの立場は、他者が私に自由を任命するということの実質的な意味が、私に呼びかけた他者が私の返答を待つことであるとする私の解釈を支持するものである。というのも、他者が待つことによって、私は返答のための時間的猶予を与えられることになるからである。自由を任命する〔investir〕ことは自由を投資する〔investir〕ことでもある。他者は待つことによって、私に時間的猶予を貸し与えているのである。このことを一言で表現する絶妙のフランス語の表現がある。それは‘preter attention’(=注意を払う)というものだ。‘preter’とは「貸す」という意味であり、‘attention’は「注意」という意味だが、その語源を辿ると「待機」という意味に辿りつく。私に呼びかけた他者は、私の応答を待つ聞き手として私に注意を払い、私に待機を貸し与えているのである。
人は、例外なくみな罪を背負っている。地上の苦悩はその罪を雪ぐためのものなのだから、苦悩する人間の方が、そうでない人間よりもより罪が晴らされており、より善良なのである。また同様に、良心の疚しさに苛まれる人間は善良な人間である。というのも、良心の疚しさは自らの罪の自覚であり、罪を自覚している人間のほうが、そうでない人間よりも善良だからである。劣悪な人の方が善良であり、優良な人の方が邪悪だということになるのだ!これこそ僧侶が成し遂げた一大革命である。この罪と罰のロジックによれば、人は罰を受ければ受けるほど善良になれる。奴隷道徳は、それを受け入れる弱者が道徳的に優位に立てるという党派性を具えているが、それは1節で取り上げた三つの道徳も同じであった。奴隷道徳の特徴は、生の促進に反することを、そしてそれのみを評価するというそのマゾヒズム的な倒錯性にある。ニーチェが奴隷道徳を執拗に攻撃する点は、ここにあるのだ。
生物学は、物理学や化学と扱う主題が違うというだけではない。生物学には、物理学や化学にはない独特の問いの立て方があるのだ。例えば分子生物学の研究で、新しい蛋白質が発見されたとしよう。生物学者が次に何を考えるかと言えば、「この蛋白質にはどういう機能があるのか?」ということである。蛋白質の分子量や立体構造を決定するのはもちろん大事なことだが、それらの研究が大事なのは、「この蛋白質は何のために存在するのか」という究極の問いに答えるための一助になるからなのである。
「将来の進路を選ぶときは、後悔しない選択肢を選びたい」と言われることがある。だがこのように言うことは「将来の進路を選ぶときは、最善の選択肢を選びたい」と言うのと同じであろうか?もし後悔というものが、人生の選択肢の中で最善の選択肢を選ばなかったときに生じるものであると単純に考えてよいのであれば、後悔をしない選択肢を選ぶことは、最善ではない選択肢ではない選択肢を選ぶということであるから、それは最善の選択肢を選ぶことと同じになるだろう。そうなのだとすると、「後悔しない選択肢」という表現は「最善の選択肢」と同義だという結論になる。だが、これは本当だろうか?「後悔しない選択肢」という言い方は、「最善の選択肢」を回りくどく言っただけのものに過ぎないのだろうか。そこで本論では、後悔しない選択肢と最善の選択肢が乖離する可能性について探索してみたい。
そもそも、内部に分節構造を持つ文(つまり一語文ではない文)を用いて主張するというのはどういうことかというと、他の語と組み合わせることも可能であるような、したがって予めつながっているわけではないいくつかの語にそれぞれ何かを代表させ、それらの語を時間的、あるいは空間的に共起させることでつながりを強調し、何らかの情報を伝えることである。「IはTである」という形式の文を用いて主張がなされる場合、主張は、あらかじめつながっているわけではない「I」と「T」が共起することによってなされているのである。したがって、図式が満たさなければならない条件は、以下のようになるだろう。
09年5/22 リンクに『水脈』を追加。
08年3/31 英語論文 CONVENTIONS AND FAILURE OF COMMUNICATION 掲載
08年3/31 英語論文 A SHORT HIGH-QUALITY LIFE VS. A LONG LOW-QUALITY LIFE 掲載
08年3/31 トップページを更新し、「英語論文」ページを開設
08年3/31 哲学のおとに、『対話の哲学』を掲載
08年2/12 哲学のおとに、『自然主義の哲学』を掲載
07年12/26 哲学のおと『主張・約束・質問・要求』を削除
07年12/26 哲学のおとに、『命令・代理・道徳』掲載
07年10/5 哲学のおとに、『現象学と自然主義の存在論的差異』掲載
07年9/15 論文に、『慣習、言われたこと、コミュニケーションの失敗』掲載
07年9/9 哲学のおとに、『Googleが選ぶ20世紀の名著100選』掲載
07年6/11 哲学のおとに、『レヴィナスの他者論 〜自由の問題との関連を中心に〜』掲載
07年6/8 哲学のおとに、『奴隷道徳の誕生』掲載
07年6/3 哲学のおとに、『主張・約束・質問・要求』掲載
07年5/23 哲学のおとに、『生物を解釈する』掲載
07年5/19 哲学のおとに、『悔いのない人生』掲載
07年5/6 哲学のおとに、『オースティン 「語る、とはいかなることか」再訪」』掲載
07年5/1 メタアナリシス『ミーム』一部書き換え
07年4/8 メタアナリシスに『ミーム』追加 (第五回として予定していた『虚構』は延期)
07年2/3 哲学のおとに、『規則のパラドクスと私的言語」』追加
07年1/8 ひとくち哲学更新、一部削除
07年1/8 論文『ブロック遊びの哲学』および『音楽の現象学』を哲学のおとに移転
07年1/8 論文『太く短い人生 vs. 細く長い人生』を推敲
07年1/8 論文を『La liberte investie』を推敲して『投資された自由』と改題
06年11/24 論文『La liberte investie』掲載、論文『語の成長』を哲学のおとに移転
06年11/6 リンクに『うさねこ研究室』追加
06年11/6 論文『PALYと人生における決断』を削除し、それを書き改めた『太く短い人生 vs. 細く長い人生』を掲載
06年10/24 論文『『全体性と無限』の言語論』掲載
06年10/16 論文『自由と虚構』掲載
06年9/24 哲学のおと一部を削除
06年9/23 哲学のおと『全体性と無限』レジュメ掲載
06年9/9 メタアナリシス第4回『翻訳』掲載
06年8/26 哲学のおと『Alva Noeのenactive approachと大森荘蔵の知覚論』追加
06年8/21 リンク「哲学者たちのつぶやき」と「ダムの決壊」追加
06年8/16 ひとくち哲学更新、壁紙はりかえ
06年8/10 哲学のおと 『スパイ・ゲーム』掲載
06年7/26 メタアナリシス 第3講『メディア』掲載
06年7/3 リンク「速水透のホームページ」追加
06年7/2 リンク「哲学的な何か、あと科学とか」追加
06年6/30 リンク「哲学の復興」追加
06年6/24 メタアナリシス 第2講『信頼』掲載
06年6/12 リンク更新
06年6/6 リンク更新
06年6/3 リンク更新
06年5/21 トップページ更新、新シリーズ「メタアナリシス」スタート 第1講は『プラグマティズム』
06年5/1 リンク更新
06年4/25 哲学のおと、一部を削除
06年4/24 ひとくち哲学更新、一部を削除
06年4/1 掲示板廃止
06年2/11 おまけ追加
06年2/7 論文に『話すことと放すこと』追加
05年12/29 ひとくち哲学更新
05年10/22 ひとくち哲学更新
05年10/9 論文に『PALYと人生における決断』追加
05年8/29 ひとくち哲学更新
05年7/8 ひとくち哲学更新
05年7/6 哲学のおとに『徹底的利現実主義』追加
05年6/3 ひとくち哲学更新
05年5/14 ひとくち哲学更新
05年5/3 哲学のおとに『みること、みられること』追加
05年5/3 『ひとくち哲学』新設
05年4/11 哲学のおとに『可能世界からの眺め』追加
05年3/30 哲学のおとに『うそとまちがい』追加